君の手に残る指輪。

ジャニーズと日常と活字と映像。

「すべてがFになる」を読んだ

今期ドラマが発表された際から気になっていた作品であり、以前の記事ではざっとした印象を述べさせてもらった作品、「すべてがFになる」。

近々原作を買うと言っていましたがようやく1作目に手を出しまして読み終わりました。とはいえまだ1作目だけなのですが。

この作品、ドラマでは一貫タイトルとして「すべてがFになる」と称されていますが、原作は「S&Mシリーズ」というシリーズの中に、この「すべてがFになる」という話が入っています。そして原作刊行順だとこの「すべてがFになる」は1作目にあたっていまして、今回この「S&Mシリーズ」に初めて手を出すということで、刊行順ということもありドラマタイトルでもある「すべてがFになる」という1作目を読んだわけです。

ドラマは2話分で原作1作分を映像化という形で進ませるようで、現在ドラマでは「冷たい密室と博士たち」(原作では2作目)を終了し、「封印再度」(原作では5作目)の全編の放送を終了しています。そちらはまた原作を読んでいないので比較して話すことはできないのですが、それでも原作1作目を読んで思った感想。

これ、ドラマ観る前に原作を読んだ方がいい。

もちろん作品がミステリー、つまり謎解き要素を含んでいる時点で、一回その話を最後まで見てしまえば当然そこまでの流れも犯人が誰かもわかってしまう。それによって作品の核となる面白さが失われてしまうという理由も確かにあります。でもそれ以上に、原作の会話のテンポだったり、描写だったり、行間から読み取れることだったりという「良さ」が、今回のドラマ化では上手く表現しきれていないように感じたのです。一番感じたのは、1作1話完結、というのはドラマのペースとしては最適なのかもしれませんがこの作品には適してないんじゃないかな、ということでした。原作知らずについてくる分にはある程度さくさくとした進行は必要なんだろうけど、それでももう少し…!せめてもう2話分ペースを伸ばせば原作の会話のニュアンスとかちりばめられた繊細さとか、原作の空気感というか時間の流れをもっと近い雰囲気で再現できたんじゃないかな…と思います。そして勝手な感想ですしまだ1作目しか読了してないですが、私だったらドラマ化よりも1作目「すべてはFになる」だけで1本映画化っていう形を望んだなあ。そう思わせる力がこの原作には宿ってるといっていい。(でもこれ封印再度終わったらドラマで次映像するんですよね…映像化すっごい全然どうなるのかわからなすぎて怖い…!笑)

ドラマでも何でもいいんですけど、やっぱり小説が映像化される時って一番表現しにくい部分って地の文の部分というか、その中でも特に心理描写の部分だと思っていて。もちろん映像化する場合には尺の問題もあるし画としてのわかりやすさの面もあるし、色々とカットせざるを得ないという都合は存在するんでしょうが、諸々カットして尚、原作が成り立たせている雰囲気は存続させるべきだと思っているんです。それが上手くいってないのがこの映像化なのかなあ…っていう感じがしました。何よりドラマで致命的だなと思うのが謎解きの部分の説明がさくさくいきすぎてて完全に初見の視聴者を置いていってしまってる感が拭えなかった(これはやっぱり尺の問題なのかも)。別に極論としてテンポが速いのは構わないんですよ。どうしてもそうしなきゃいけない事情だってあるだろうと思います。それでも謎解き中の一種独特な(これは作品にもよるし作者にもよる)雰囲気の表現とかって、ちょっとした間で随分それっぽく表現できると思うし、謎解き後の余韻を残して、作品内に対しても視聴者側に対しても、ちょっとした考える時間を与えることだってできると思うんです。あとはこのドラマでいう「冷たい密室と博士たち」の犯人と相対する部分の表現とか。あれってきっと必要だと思った部分を取り出して繋ぎ合わせたからこそ表現されてしまったものだと思うんです。圧倒的に「雰囲気作り」が足りてない。視聴者が何もわからないまま、最初の方で置き去りにされてしまっている。気付いた時には事件は終わっていて、なんて心境にさせるつくりだなと、一視聴者としては感じてしまいました。それでもこれ原作は全然違って面白いんだろうなと思ったから手を出したわけなのですが。でもやっぱり時間が足りてない気がすると思って仕方がなかった…!この作品を映像化するにあたっては多分カットカットでぎゅうぎゅうにつめるのは向いてなくて、むしろいかに間を大事にするかっていうのがポイントなんじゃないかなあと原作読んですごく感じました。ドラマ観てもわかるのはわかるんだけど、原作を読んだ印象から俯瞰してみてみると、やっぱりダイジェスト編っていうか、「短く簡単に観せようとして逆に視聴者置き去りにしちゃったよ」って感じ。

意味は分かるし謎解きもわかるし犯人も分かる、でもそこに対する感情移入をさせる間とか情報が圧倒的に不足しちゃってるんだなあ、と思った。そしてそれはカット部分にもよるんだろうけどやっぱり表現とか演出にも起因してるのかな。逆に、原作読んだ上で、主な骨組みとしてはこういう話なんだって観る分にはそれなりには適しているのかもしれない…いや、どうだろう(笑)

私、元々ミステリ系のお話は好んで読んだり観たりする方なのですが、事件が起こることを軸にして考えて、「事件が起こる前」と「事件が起こるシーン」と「事件解決に思考錯誤している時間」と「事件解決シーン」の中でどれが好きかっていうと、後者2択だったりします。ああでもないこうでもない、って作中の人物と一緒になって考えたり、ああこういう考えがあるのかって思いながら進んだりっていうのが好きだし、意識せずともそういう読み方・観方をしているんですが、それってやっぱり感情移入してるが故なんじゃないかなって思います。人に、っていう意味だけじゃなくて、「作品自体に」入り込んでいる。「すべてがFになる」、このドラマ化の表現では視聴者を作品に感情移入させる要素が削ぎ取られているように私は感じてしまった。そして、事件解決シーン。ここでは今まで読者・視聴者側が思いもよらない考え(もしくは推理で辿りつくだろう考え)を提示して、それについて説明したり行動したりしていく。ここに作品に対する感情移入が不必要かと言われると、それはやっぱり必要なことなのだ、と思う。要するに解決シーンまで観ていた側に対し、それまでの流れをぶったぎらないようにいかに表現するか、だと思う。わからない説明ばかりでは、それまで面白いと思っていた人は興醒めだろうし、もしわからなかったとしても捕捉だったりとか、またわからない人たちにも雰囲気でもっていかせる演出だとか楽しさだとかが表現されていなければたちまち観ている側は作品の中から放り出されてしまう。そこにもテンポの意識とか間の意識はやっぱり重要だ。何と言ったって、観ている側は作中の人たちが驚いたり悲しんだり楽しんだりしているのを観て、少なからずその感情に目を向けるのだ。なのに会話だらけで間がなかったりだとか、間とか余韻が足りないが故に登場人物が何に反応して感情が揺れ動いたのか、どうしてそんな行動したのかが理解できなかったりするとそこで作品と観る側を繋いでいた糸はいとも容易く崩れ落ちてしまう。後から、ああこうだったのかと考えれば理解できることもあるだろうが、その作品を観ている時間、その作品の流れの中で自然に違和感なく話を飲みこめると言うのは、やはりその作品に「入りこめている」証拠なのではないかと思うし、そうさせてくれる作品の表現によるところなのだと思う。

今言いたいのは、ドラマを観る前に(私のようにもう見ちゃってる人は仕方ないけど、でも仕方ない上でも)やっぱり原作を読むべき!ということである。感じ方が絶対違う。全然違う。何なら作品に関わることにより得られるものが段違いに違う。

「すべてがFになる」文庫版解説で解説者の方も仰っていたのだが、今まで思っていた常識というか、普通と思っていた価値観を、そもそもの基盤からぶっ壊されて、「自分で」考えることを余儀なくされるというか。「これが普通だから、こうやって考えるのが当たり前だから一般常識だからこうなんでしょ」って考えなんか全然通用しません。それが面白いなあって。こういう感覚与えてくれる作品って特殊だなあと思うし好きだなーと思うんですが、解説者の方が仰ってたように京極夏彦作品にも通ずる所だなーと思います。そしてすごく頭悪い感想だなと思うのですが、個人的に通ずるなと思った感想で、私この作品を読んで、「すっごい頭良くなった気がする!」って思いました(笑)わからない知識ばっかりでてくる、って意味じゃなくて作品を通して色んなことを考えさせられたなって意味で。だからやっぱり、そう思わせる原作がある以上、それに劣るにしてもドラマも何か視聴者側に訴えかけたり考えさせられるものが沢山あったらいいのにな、って思った。作品を通して得られることっていっぱいあると思うんだけど、ドラマも観ることによって原作と同じように何か得られるものがあったらそれだけでもちょっとは救われるんじゃないかな(主に原作ファンの気持ちが)!